より主観的に進めるということ

ようやく自分のカメラを手に入れた時の喜びはとてもよく憶えている。父から動作の渋くなった一眼レフをもらったのが22歳の冬。四国へ旅する当日だった。フィルムの5本パックを2箱買い札幌行きの夜行列車に乗り込んだ。当時は道東の北見という街に住んでいた。車内で冷静を装いカメラの説明書を広げて嬉しさ溢れるのを抑えていたのが懐かしい記憶だ。説明書から得たことは、背景が暗い場合はマイナス補正、明るい場合はプラス補正など露出補正に関することだった。それまでのカメラといえばレンズ付きフィルム「写ルンです」や動作が渋くなる前のこのカメラで、ファインダーを覗いてシャッターを切るのがただただ楽しかっただけであった。露出という言葉が聞き慣れなくて気になっていたのだと思う。旅行はもちろん、どこへ行くにも一緒に連れて写真をたくさん撮った。その後は、マニュアル操作に憧れて中古で古いカメラを何度か使って楽しんだ。何が撮りたいのか?なんて気にすることもなく純粋に楽しい思い出だった。

どんな写真を撮りたいのか?

本を読んだり写真集を眺めているうちに色々と思い、考えて躓いた。いつかいい写真を撮りたいと技術ばかりに目が奪われてしまい何をしたいのか見失ってしまうのだった。目的もなく徘徊している気分だった。写真は目の前にある情景がそのまま写り込む。撮ろうと思ったものがそのまま写っている。でもその場の匂いは写れないでいた。

写らないものがあると知って何とかしようと思ったのが始まりだった。

解決できたのかというとそうでもなさそうだが、もしかしたらという気持ちはまだまだある。写真の面白さが変化したのはこの辺りからになる。面白くて難しくて、一喜一憂で一期一会だ。まるで煩悩のように纏わり付き執念にも似たものだった。雑誌の撮影も個人的な撮影も向き合い方から再スタートした。例えば1枚の写真が人を動かしたのなら、そこには見えている以上の存在感があるのだろう。

大袈裟に書き綴ったが、より主観的で自由に撮った写真たちは心地よさがある。